セルフモニタリングなき発信をする人(2)

自分の中にぶれない機軸を持つことは大切である。これは、前回扱ったとおりです。
けれどそれは、内心の問題です。
自分の心の中に確固たる価値観を持ち続けることは、生きやすく生きるために必要であると信じます。
けれど発信するとなると、ちょっと事情が変わってきます。
受信側の感情も配慮する必要があるからです。
人間が1人で生きているわけではない以上、どんな小さなコミュニティであったとしても、受信する側の人は確かに存在します。
そしてその人にはその人の、内心の機軸(確固たるものでなくとも)が存在し、それを踏みつけにされることに対して、良い感情を持たないのが普通です。
ですから内心の思いを発信する際には、それが特に相手の何か(容貌、言葉、価値観)を否定するものであるかを一瞬考えると、表現が変わってくるのではと思います。
例えば「太った?」なら、「あら、幸せなの?優しい顔つきになったね。」等。
「あんただって、あの時こう言ったよね。」
「あんただって、あの時こんなことをしたよね。」
「正直に自分の思いを口にしただけ」と言う人々は、それを突かれると、必ずこのように反論してきます。
ええ、そのとおりです。
誰しも完璧な人はいません。
けれどセルフモニタリング(受信側に配慮するために自己を客観視する)をしようと努力する気があるとないとでは大違い。
これまでどうだったかは関係ないのです。
気づいた時から、努力を始めれば良い。
そしてこの努力を始めると、セルフモニタリングのない発信者に対して、心の距離をおけるようになります。
セルフモニタリングなしの発信が許されるのは、幼児だけだからです。
相手が幼児だと感じたら、本物の幼児に対するように、大人への期待をしなくなります。
ぜひお試しください。

セルフモニタリングなき発信をする人(1)

前記事で、他者の評価に振り回されない自分を大切にしたいと書きました。
自己の価値基準を大切に、自分にとって〇か×か△か、ぶれない機軸を持ちましょうと、おおよそそんな内容です。
内心、言い換えれば「核」とでも言いましょうか、自分の中にある思いは、他者からの評価で揺らいでいては、生きにくい。
それは確かです。
けれど内心をそのまま発信するとなると、少し話が違ってくるのではないでしょうか。
今日は発信を伴う場合について、書いてみます。

「太ったね。」
「粉ふいてるみたいな顔に、色を塗りたくって。」
「髪がちりちりになってる。」
「頭悪いね。」
「気がきかないね。」
「垢ぬけない。」
「(食事を)おごる以外に、あの人になんの価値があるの?」
例えば、上のようなこと。
直接言われることはもちろん、他人のことだとしても聞かされて嬉しい人は、少ないのではないかと思う例をあげてみました。
こんなこと、口に出す人いるのかと思っていましたが、いるんですね(笑)。
そしてこう続くのです。
「だってほんとのことじゃない。」

「本当のこと」とは、その人の基準での正しいことです。
上の例でいえば「太った」だけは、体重やBMIや体脂肪率等の数値で客観的に証明できますが、それ以外は極めて主観的な評価でしょう。
それを「本当のことだから、言って何が悪い。」と発信されると、「本当のこと(本人が思っていること)だからと言って、口にして良いことではない。」と思っている人からすると、「あ~、痛いな。」とひいてしまいます。
先日親しい後輩と話していた中に出てきた言葉ですが、
「それを言ったら、みもふたもない。」
という類のこと。
けれど発信した当人はといえば、話している相手が困惑した態度をとっていても、「本当のことをはっきり言える私(俺)。表裏がなくていいだろう。」くらいに、さばさばとした表情で笑っていたりします。

次に、自慢話。または自己中心話。
誰かが
「アルゼンチンタンゴの夕べに誘われてね、行ってきたんだよ。
バンドネオンって初めて聴いたけど、いいもんだね。」
そう切り出した時に、
「ああ、タンゴなら私(俺)、先月横浜で聴いたよ。
世界的に有名なバンドネオンの奏者でさ…。」
例えばこのように、自分の話に持って行ってしまう人。

アルゼンチンタンゴなんて、自分の方があなたより知っている。
そして自分の聴いた演奏は、世界的に有名な奏者のものだ。
この2点を言いたいのだなと感じたら、切り出した側はそれで口をつぐんでしまうでしょう。
なんでも自分の方が上でなくては気が済まない。
俗にいう「マウンティング」体質の人。

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