ダイバーシティ(多様性)を考える

 

Diversity ダイバシティとは、多様性を意味します。
昨今では、多様な人材を積極的に活用しようとする考え方を指して使われることが多くなっているようです。

多様な人材として、よく挙げられるのがLGBTや女性です。
どんな性であるか、自認があるか等、その人の持つパーソナリティは、だれかとの扱いに差を設ける合理的な理由にはなりません。
当然のことなのですが、そう思わないのが普通であった時間が長かったので、いまだに多数派でない個性を持つ人々に対して、全くフラットであるとはいいがたいのではないでしょうか。

そもそも「普通じゃない」とは、良くないことなのでしょうか。
普通とは、長い時間をかけてできた習慣であり常識なのですが、例えば同性愛が過去タブーであったのは、宗教的な理由からであったようで、その宗教の信者数が多く教団に権威もあったので、そのような常識ができたのでしょうが、多数派がいつも必ず正しいと限らないのは、言うまでもありません。
ただ多数派の勢力はいつの時代も大きなもので、少数派は沈黙を守るしか、身を守る術がないのも事実です。
めんどうごとに巻き込まれぬために、多数派に逆らわず、ひっそりと生きてきた少数派は、いつの時代にもいたことでしょう。

たとえば「飲酒運転をしてはならない」とか「社内決裁はこの順序で」とか、社会生活に必要なルールに従うのは、どのようなパーソナリティをもっていても等しく課される義務です。
けれどプライベートのエリアでの優先順位についてや、考え方の傾向、キャリアや育ってきた環境、もろもろについて、多数派と同じでないことを陰に日向にあれこれ言うのは、いかがなものかと思います。
よく聞く言葉に

「彼は(彼女は)変わっているから。」

というのがあります。

変わっている=多数派ではないことが、さもさも悪いことのような口調で、その言葉は出されます。
たとえば病気で長く休学していた過去がある。
たとえば飲み会に参加しない。
たとえば持ち物にキャラクターものが多い。
たとえば未婚だけれど、子供がいる。
たとえば…。

みんな同じであるなんて、そもそもあり得ないことです。
多数派の中でも、細かな部分まで下がっていけば、多数派と小数派に分かれてゆくはずですし、つきつめれば皆、他人とは違う人になるはずだからです。
けれど私たちの多くは、自分が多数派であることに安心感を覚えるようです。

「この案について、賛成の人、手をあげてください。」

こういわれた時、すぐには手を挙げず、周りを見回してから手を挙げませんか。
みんなと同じだと安心する。
変に目立ちたくないと思うからでしょう。
目立てば…、いつもそうではないでしょうが、「出る杭は打たれる」という文化だからです。

そのくせ「個性を尊重し」などという言葉も、よく耳にします。
学校でも社会でも、よく聞きませんか。
本当に個性を尊重するのであれば、

「みんな、違って当たり前。」

そう思うことからです。
生活するのに必要な社会のルールや、仕事をするのに必要なルールを守っているのであれば、その先のこと(既婚か未婚か、子供があるかないか、性自認がどこにあるか等)について他人があれこれ言ったり、扱いに合理的ではない差を設けたりするのは、とても失礼なことだと思います。

ダイバーシティ社会を実現するためには、まず私たちの日ごろの生活の中にある多様性について、

「みんな違ってあたりまえ。」

自分の生活を乱されない限り、違いを当然のこととして受けとめられるようになることです。

「彼(彼女)、変わっているね。」

そういう言葉を聞いたら、

「そう?
普通じゃない。」

と言える社会になると良い。
そう思います。