心理的距離を縮める

 

コロナのせいにするのは情けないことですが、対面を前提とする研修は、次々と見送りになった2020年度でした。
国をあげて感染予防につとめている現在であれば、それは当然のことです。
オンラインへの切り替えは、時代の流れでしょう。
当社でもCiscoのWebexを導入して、オンライン研修開催の環境を整えました。

でも多分、それだけでは足りないのです。
オンライン研修に切り替える、それは技術的な、もっといえば道具を整えるだけの変化です。
それでは物理的に遠くなった距離を縮めることはできない。
そう思います。

人と人との距離を、オンラインであっても縮める。
これが2021年度のテーマです。
物理的に難しいのであれば、心理的に縮めるしかありません。
人がどんな時に、相手を身近に感じるか。
私がどんな時に、相手に親近感をおぼえるか。

「話をしっかり聞いてくれる人」

とは、共感が大事という傾聴の研修で、よく使われることですが、これ、マニュアル的な相槌をうたれると、少しカンの良い人ならすぐに気づきます。

「あ~、マニュアルだ。」

ではどんな聞き方なら、親近感をおぼえるか。
相手の環境を、理解しようと努力する姿勢があるか否かではないかと考えます。
相手の環境とは、ビジネスの世界においては、仕事の内容のこと。
すべてを理解できると思うのは、こんなに傲慢なことはありません。
けれど「なんとなく」とか「見当違いではない」とか、そのレベルには、近づけるのではと思います。

2021年度のテーマ「人と人との距離を縮める」を達成するために、ご贔屓くださる現在の顧客の業務内容を、さらに深く理解しようと考えています。
まずは手始めに、業界の方々がお持ちの資格を取得しようかと。
資格取得のために頑張る時間が、共通体験になればと思います。
合格出来たら、ここで資格名を書かせていただきますね。
サラリーマンであった頃、資格取得にはさほど熱心ではありませんでしたが、目的があると、違いますね。
モチベーション上げて、しばらく頑張ってみます。

課題解決の進め方

とある企業の、キャリアパス(契約社員から正社員へ登用された方々)の管理者による「課題解決発表会」をお手伝いいたしました。
皆様、初めてのことだったので、パワーポイントによる資料の作成や発表の作法等、戸惑う事ばかりのご様子でした。

けれどそれぞれがお出しになった「職場の課題」は、どれもみな生々しいほどリアルなもので、みなさんがいかに問題意識をもって仕事をなさっているか、伺われます。

課題(こうしたい、こうなれば良いというテーマ)があって、次に現状分析があります。
そしてどうしてそんな現状なのかの原因を探り、その原因を取り去るためにはどうすれば良いかを考えます。
そしてそれを解決すると、どのような効果が生まれるかを考えて、これらを最大で9枚以内のファイルで表現する。
これが今回、みなさんがなさった作業です。

普段お忙しい中で、ついつい後回しになっていた考え事をするのに、良い機会だったようにお見受けしました。
原因の深堀りをすることで、より具体的な解決策が次々に提案されてゆく様は、さすがに選ばれて管理者になった方たちだと、感嘆するばかりです。

このうえは、ご自身が提案されたその策を、ぜひとも実行して課題をリアルに解決していただきたいと願っています。
発表会のための発表ではなく、リアルに会社をよくするための提案に、ぜひぜひしていただきますように!

チャンピオンの誇り

7月から支援に入らせていただいた企業のコールセンタ、インバウンド営業のコンクールにて、代表選手ペア2名が見事優勝!!
知らせを受けた時には、エレベータの中だったのですが、

「うわ!
やった!!!」

と声が出てしまいました。
そのくらい、嬉しかった。

予選、決勝と勝ち抜いた選手2名の方の地力と努力の結果に、心からお祝いを申し上げます。
おめでとうございます。
本当に良かった。
こんなに嬉しかったのは、何年ぶりでしょうか。

さて、優勝の歓喜が過ぎた後、次にくるのはチャンピオンの責任です。
「コンクールで勝った」、これで地力は客観的に評価されたことになります。
けれど営業系企業なら、その地力が数字、つまり売上に反映されてはじめて皆の尊敬を集めることになるのではないでしょうか。

ほら、こんな憎まれ口、聞いたことありませんか?

「あいつは試験だけはできるからなあ。
実技(実務)は、まるでだめなくせに。」

「彼女はコンクールにだけは強いのよ。
でも実際の応対は、私の方が上。」

実務が上で、資格やコンクールが下のような言い方で、有資格者やコンクール入賞者にマウントする人々。
そんなことはありません。
実務のできる、できないは、売上数字のように客観的に出るものもありますが、主観的なものが多いのです。

「あいつは頼りになるなあ。」

「あの人は仕事が速いよね。」

こういう感覚的な評価も大事ですが、本人の自己評価と他人の評価が違う時、評価の基準を示すのが難しいものでもあります。
だから上の例で言うと、本人は

「彼女はコンクールにだけ強い。
実務は私の方が上。」

そう思っていても、何をもって上と言えるのか、非常に曖昧です。
でもコンクール優勝となれば、客観的な評価の結果と他人に示せます。
示せますが…。
そう言われるのは、なんとも腹立たしいですね。

話を戻します。
今回優勝した2名の方はもちろん、センター全体にも、チャンピオンへの羨望の視線が向けられます。
売上の数字においても、今まで以上に注視されるのではないでしょうか。
そうであれば、ぜひここはチャンピオンの誇りにかけて、よりよい成績をめざしていただきたいところです。
私が存じ上げているあのセンタの皆様なら、必ずできると信じています。
堂々たるチャンプの誕生を、心よりお祈り申し上げます。

社内シンクタンクのありがたみ

シンクタンク。
社会政策、政治戦略、経済、軍事、技術、文化等をテーマとして研究し、発表することによって時の政権や世の中に影響を与える集団として、耳にすることが多い言葉ですが、もう1つ意味があります。
直訳した「頭脳集団」としての機能を果たす個人、グループ。
企業には、この役割を果たす部署が、多くの場合設けられています。

上層部へ行けば行くほど、扱う範囲が広くなるので、そのシンクタンクには経済全体を見通せて、さらに自社特有の事情も加味して考えられる能力が必要でしょう。
でも現場に近いところでは、もっと小さな範囲で生々しい事情を理解した上、自社の商品やサービスについて精通したシンクタンクが必要です。

提案力向上のサポートに伺っている企業様で、つい先日驚かされたこと。
この研修には、このデータとこの資料とが必要と即座に出してくださいます。
(社外に出せないものは、もちろん除いてあります。)
そして私があるサービスについて、詳細部分を伺ったところ、即座に回答が返ってきます。
それも現場レベルのことと、サービスの処理行程レベルのこととに切り分けて、すっきりと。
おかげで研修資料の作成、実施が、するりと進みます。
ああ、これが企業の力なんだとあらためて感動したところです。

昔、会社員だったころのことを思い出しました。
会社員だった頃には、あるのが当たり前だった「聞けばわかる。聞けば答えてくれる」部署のありがたさを、当時の私はまるでわかっていなかったなぁと。
おそらく今、会社員である方々の多くも、きっと当時の私と同じではないでしょうか。
シンクタンクのあるありがたみ。
かつての私に言ってやりたい。
「もっともっと積極的に、自分から情報を取りにいきなさい。」

今回の研修で、結果につながるサポートができたら良い。
お世話になったシンクタンクの皆さんのためにも、そう願ってやみません。

 

 

 

コーチは大切です。

ある企業様で、提案応対競技会のサポートをさせていただいています。
常日頃から現場でお客様対応をなさっている皆様の力量は、さすが企業の看板を背負う企業戦士のそれです。
勉強熱心な態度も、ほんとに敬服するばかり。

さてその競技会、つい先ごろ、予選大会がありました。
そこでびっくり。
「え?
本当に〇〇さん?」
1か月ほど前にお目にかかった時とは、別人かと思うほど違う。
見事な相槌、心のこもった共感、その他技法については省きますが、それらを駆使しながら、何よりも自然体です。
驚きながら、感心しながら、ただ聴き惚れておりました。

私がいくら研修に伺ったとしても、それだけでここまで改善するとは自惚れておりません。
外部の研修講師の役割は、改善の契機を与えることです。
個人練習等、別に数回の機会があれば別ですが、対象の方にずっと付き添っているわけではありませんから、研修時にご指摘したことを実現するには、その方の努力がどうしても必要です。
けれど努力したとして、それを客観的に評価してくれる存在なしには、自分のしていることが良いのか悪いのかわかりません。
そこでコーチが必要になります。

このコーチ、社内の育成担当ですが、このコーチの熱心さによって、対象者は自分の努力の結果を1つ1つ評価してもらい、スキル向上できるわけです。
毎日の仕事の中で行われるそれは、社内の育成担当でなければ不可能な、大切な仕事です。
〇〇さんは、勉強熱心で向上心もある、とても優秀な方です。
その方が、熱心なコーチに出会い、細かなアドバイスや指導を受けて、改善点を克服し、良い状態を定着させていったのだと思います。

コーチの必要性について、いろいろな場面でよく扱われます。
今回は間近にその力と結果を見せていただけて、あらためてコーチの重要性を認識したところです。
社内育成担当と外部講師の連携のあり方について、考えさせられた出来事でした。

無知の知は、楽しい

己の足らざるところ、知らざるところを知る。
その意味について、字面を追って、なるほどそうかと分かったつもりでいたことですが、いやいや、そんな薄っぺらいものではないと、最近しみじみ思うようになりました。

独立して、いろいろな企業、担当部署の方々にお目にかかるようになりました。
そちらの課題解決のお手伝いをさせていただくのが、今の私の仕事なのですが、この課題が、それぞれなかなか奥深いのです。

各組織には、それぞれ固有の土壌があり、その土壌を前提にしなければ、どんなカリキュラムや資料を作ってもうすっぺらで、およそその組織の人の心に残りません。
今お世話になっている研修エージェントの担当さんが、

「受講者の満足度」

という言葉を使われます。
字面だけ見ると、

「そんなの当然でしょ。CS(顧客満足)なんて、今や当たりまえ。」

と思うでしょうが、これを実現するとなると、なかなか手ごわいのです。

満足度を上げるには、受講者ニーズに合致するものを提供すればよい。

これもまた、当然でしょと言われそうです。
では、何が受講者ニーズに合致するのかと考えてゆくと、表面的に表れている、例えば「提案力の向上」という顕在的ニーズにだけ応えたのでは、おそらく合致したと、受講者は思ってはくれないのではないでしょうか。

 

昨日、とある企業で、「提案力強化」を目的とした研修を担当しました。
研修そのものは、1日で終了ですが、その準備にかかった時間は、おおよそですが、5倍以上にはなっているはずです。
該当業種の特性をよく調査して、先方企業の担当の方とよくよく打ち合わせをして、作成資料のチェックをしつつ、ようやく研修資料を作成しました。
この過程で、「先方企業の、受講者の働く環境や、必要とされる能力について、ざっくりとしか知らない。」ということに、気づかされます。
知らないものは、できるだけ知ろうとするべきだと考えて、積極的に先方の担当の方にコンタクトを取り、潜在的に求めているだろうものは何か、それこそものすごく一生懸命に考えました。
そして出来上がったのが、現場で取り扱うだろう事例を基にした、提案力の強化というモデルです。
企業のホームページやパンフレットを読み込んで、できるだけ現実に近いものに仕上げました。

これで完璧などとは、けして思っておりません。
私の座右の銘は、「温故知新」なのですが、これに今後は「無知の知」を加えようと思うこの頃です。

 

 

年輪の品格は素敵

先週のことです。
あまりに暑いのと、資料作成作業が続いて少し疲れ気味だったのと、言い訳をたくさんしながら、お寿司屋さんに行きました。
特上のにぎりセットを頼んでも、2500円~3000円のお寿司屋さんです。
もちろん、私が特上を頼んだりしたわけではありません。

そのお店は、こんな状況になる前から、ゆったりとした座席配置のお店で、お値段も前述したとおりなので、老若男女年齢層は幅広い。
その日、私の隣りの少し離れたテーブルには、おそらくは60代後半から70代前半かなというご夫婦がおいでになりました。
二人で仲良く料理をつまみながら、いくつか追加注文なさった後のこと、妻が席を立ちました。
一人になった夫が、お店の方に

「これを下げていただけますか。」

と穏やかな声でお願いしたのです。

あの年齢で、あんな丁寧なおしゃべりをする方が、ここ広島にもいるのねと、少し驚いて、それ以降なんとはなしに、その夫に注意がむいていました。
妻が帰ってきて、お酒が運ばれてきて、

「おめでとう!」

盃を上げて、妻がそう言うと、

「ありがとうございます。」

照れくさそうに、夫が答えます。

 

この光景に心が洗われるような気分でした。
二人とも、穏やかな声でお話しなさるのですが、とてもとても楽しそうです。
夫のお祝いに、少しだけ贅沢をしてお寿司屋さんに来たのでしょう。
ブランドの服やバッグで身を飾っているわけでもなく、ごく普通のスラックスとポロシャツのような恰好でしたが、そこはかとなく品格が漂います。

「年をとると、いろいろなことが顔に出る。
見た目も、年をとると本人の責任でもある。」

昔、年長の女性がよく言っていたことです。
それを思い出しました。

いつか私が、あのくらいの年齢になった時、あんな風に穏やかな品の良さを身につけられていたらいいと思います。
日々ありがたいと感謝しながら暮らせば、ああいう風になれるのでしょうか。
日々、できることを努力しながら暮らせば、ああなれるのかなあ。
なんにせよ、穏やかに暮らすとは、これ、究極の幸せだと思います。
本当に素敵でしたよ、あのご夫婦。

 

 

 

フェイスシールドをつけてみた

フェイスシールドを使ってみました。
使ったのは、これ。

山本光学のフェイスシールドLタイプです。
交換用シールド3枚とフレームのセットで、1380円でした。(ASUKUL購入)

使い心地は、思ったより快適です。
まず軽い。
眼鏡のフレームと同じ作りなので、髪も崩れません。
使い捨てのシールドは、しっかりしている割に軽くて、クリアです。
つけていることを忘れて、つい顔を触りそうになります。
あごの下までしっかり隠してくれるのに、密着していないので圧迫感もなく、息をしても、曇りません。
もちろんマスクをすれば息苦しいのですが、それはフェイスシールドをつけているからというより、マスクをしているからでしょう。

使い捨てシールドは、1枚あたり約300円。
マスクよりは高価ですが、使い勝手の良さを考えると、なかなかの優れものだと思いました。

実はこの商品の他のフェイスシールドも試してはみたのですが、頭部にベルトで固定するタイプのものは、髪が乱れます。男女問わず髪型を気にする人には、向かないような気がします。

以上、フェイスシールドを使ってみた感想でした。

嫌な記憶、どうすれば良い?

人間、生きていれば、いろいろあります。
楽しい記憶もあるでしょうが、より鮮明に強く長く残るのは、恥ずかしかったり、つらかったり、悔しかったりと、嫌な記憶ではないでしょうか。
普段すっかり忘れたつもりで生きているというのに、その嫌な記憶は、ふとした拍子に浮かび上がっては、その時の恥ずかしかったり、つらかったり、悔しかったりという感情をリアルに再現してくれます。
そんな時、大きく首を振ったり、声を出したりして、その記憶を振り払おうとしたことのある方は、少なくないのではと思います。
今日は、そんな嫌な記憶の扱い方について、触れてみることにします。

嫌な記憶が浮かび上がってきた時に、大きく首を振ったり、声を出したりして振り払うのは、確かに効果があるでしょう。
ただしそれは、一時的なものです。
時間が経てば、またなにかの拍子に、その記憶は蘇ってきます。
逃げようとしても、逃がしてくれません。
いつまでもどこまでも、追ってくるようです。

ではなぜ、その記憶を嫌だと思うのでしょう。
いろいろな見解があるでしょうが、私はこう思います。

その時の自分を認めたくないから。

恥ずかしい思いをした自分、つらい思いをした自分、悔しい思いをした自分、そうなった原因を作った浅はかな、あるいは愚かな、あるいは軽率な自分を、直視したくないから、だから目を背けるのではないかと。

恥ずかしい自分を、誰が知らなくとも、自分は知っている。
蘇る、ぶり返す記憶は、さぞやつらいことでしょう。
けれど、それは過去のことです。
もう変えられない過去に起こった出来事ですし、こうありたいと思う理想どおりの生き方や言動をのみしてきた人は、ごくごく希少でしょう。
理想とは異なる言動をして、恥ずかしいやら悔しいやらの思いをした自分も確かに自分だと、他の誰が許して認めてくれなくとも、自分だけは過去の自分を許してほしい。
そうすれば、とても楽になります。

夜、夜半、苦い記憶が蘇ってきたら、

「ああ、仕方ないね。
ばかだね、私。
だけど他の誰が許さなくても、私はあなたを認めてあげる。
私はあなたが好きだよ。」

頭を振る代わりに、言い聞かせます。
胸のつかえが、すうっと融けるみたいになくなります。

嫌な記憶に追いかけられたら、一度、お試しください。

カタカナ言葉を使うならTPOを考えて

 

昨日だったか、9月始業制について東京都知事が語った言葉に、

「来年にしますと、モメンタムをなくす。」

というのがありました。

小池百合子都知事にとって、モメンタムという言葉は彼女自身の語彙として、しごく当然のものなのでしょう。
けれどその言葉を聞いた時、違和感を覚えたのは、おそらく私だけではないだろうと思っていましたところ、やはり。
今日のワイドショーやら、ネットの記事等に、あまり好意的ではない扱われ方で出ていました。

要点は1つ。

「来年にしますと、勢いをなくす。」

これでは、どうしていけないのでしょうかということです。

 

ビジネスの世界でも同じようなことがあります。
よく聞く言葉を例に挙げます。

ミッション(使命)
ハンドリング(操作)
サマリー(要約、まとめ)
アジェンダ(議題)
アサイン(割り当て、任命)
アテンド(世話をする、介添えをする)
リスケ(予定を取り直す)

日本語で話せば、誰にでもわかるものを、あえて英語(しかも単語)にする。
それがある集団においての共通言語となっている場合、そうしなければコミュニケーションがとれませんから、従う必要があるでしょう。
言葉は符牒のようなもので、集団ごとにある程度の特殊性を持つと思うからです。
その集団に属する仲間であれば、共通言語を使わないわけにはいかないことでしょう。

けれども異なる共通言語を使う集団の中では、慎むべきです。
その集団に属する人々の、理解できる言葉で、語られるべきです。
言葉は自分の考えや思いを伝え、相手に理解してもらうために使うものだからです。

時々お目にかかるカタカナ言葉を乱発する人、それも相手や場所を選ばずに。
あまりかっこいいものではないと思うのです。
相手に自分の考えを理解してもらおうと思うより他の、何かしらの感情が透けて見えるような気がするからです。