年輪の品格は素敵

先週のことです。
あまりに暑いのと、資料作成作業が続いて少し疲れ気味だったのと、言い訳をたくさんしながら、お寿司屋さんに行きました。
特上のにぎりセットを頼んでも、2500円~3000円のお寿司屋さんです。
もちろん、私が特上を頼んだりしたわけではありません。

そのお店は、こんな状況になる前から、ゆったりとした座席配置のお店で、お値段も前述したとおりなので、老若男女年齢層は幅広い。
その日、私の隣りの少し離れたテーブルには、おそらくは60代後半から70代前半かなというご夫婦がおいでになりました。
二人で仲良く料理をつまみながら、いくつか追加注文なさった後のこと、妻が席を立ちました。
一人になった夫が、お店の方に

「これを下げていただけますか。」

と穏やかな声でお願いしたのです。

あの年齢で、あんな丁寧なおしゃべりをする方が、ここ広島にもいるのねと、少し驚いて、それ以降なんとはなしに、その夫に注意がむいていました。
妻が帰ってきて、お酒が運ばれてきて、

「おめでとう!」

盃を上げて、妻がそう言うと、

「ありがとうございます。」

照れくさそうに、夫が答えます。

 

この光景に心が洗われるような気分でした。
二人とも、穏やかな声でお話しなさるのですが、とてもとても楽しそうです。
夫のお祝いに、少しだけ贅沢をしてお寿司屋さんに来たのでしょう。
ブランドの服やバッグで身を飾っているわけでもなく、ごく普通のスラックスとポロシャツのような恰好でしたが、そこはかとなく品格が漂います。

「年をとると、いろいろなことが顔に出る。
見た目も、年をとると本人の責任でもある。」

昔、年長の女性がよく言っていたことです。
それを思い出しました。

いつか私が、あのくらいの年齢になった時、あんな風に穏やかな品の良さを身につけられていたらいいと思います。
日々ありがたいと感謝しながら暮らせば、ああいう風になれるのでしょうか。
日々、できることを努力しながら暮らせば、ああなれるのかなあ。
なんにせよ、穏やかに暮らすとは、これ、究極の幸せだと思います。
本当に素敵でしたよ、あのご夫婦。

 

 

 

嫌な記憶、どうすれば良い?

人間、生きていれば、いろいろあります。
楽しい記憶もあるでしょうが、より鮮明に強く長く残るのは、恥ずかしかったり、つらかったり、悔しかったりと、嫌な記憶ではないでしょうか。
普段すっかり忘れたつもりで生きているというのに、その嫌な記憶は、ふとした拍子に浮かび上がっては、その時の恥ずかしかったり、つらかったり、悔しかったりという感情をリアルに再現してくれます。
そんな時、大きく首を振ったり、声を出したりして、その記憶を振り払おうとしたことのある方は、少なくないのではと思います。
今日は、そんな嫌な記憶の扱い方について、触れてみることにします。

嫌な記憶が浮かび上がってきた時に、大きく首を振ったり、声を出したりして振り払うのは、確かに効果があるでしょう。
ただしそれは、一時的なものです。
時間が経てば、またなにかの拍子に、その記憶は蘇ってきます。
逃げようとしても、逃がしてくれません。
いつまでもどこまでも、追ってくるようです。

ではなぜ、その記憶を嫌だと思うのでしょう。
いろいろな見解があるでしょうが、私はこう思います。

その時の自分を認めたくないから。

恥ずかしい思いをした自分、つらい思いをした自分、悔しい思いをした自分、そうなった原因を作った浅はかな、あるいは愚かな、あるいは軽率な自分を、直視したくないから、だから目を背けるのではないかと。

恥ずかしい自分を、誰が知らなくとも、自分は知っている。
蘇る、ぶり返す記憶は、さぞやつらいことでしょう。
けれど、それは過去のことです。
もう変えられない過去に起こった出来事ですし、こうありたいと思う理想どおりの生き方や言動をのみしてきた人は、ごくごく希少でしょう。
理想とは異なる言動をして、恥ずかしいやら悔しいやらの思いをした自分も確かに自分だと、他の誰が許して認めてくれなくとも、自分だけは過去の自分を許してほしい。
そうすれば、とても楽になります。

夜、夜半、苦い記憶が蘇ってきたら、

「ああ、仕方ないね。
ばかだね、私。
だけど他の誰が許さなくても、私はあなたを認めてあげる。
私はあなたが好きだよ。」

頭を振る代わりに、言い聞かせます。
胸のつかえが、すうっと融けるみたいになくなります。

嫌な記憶に追いかけられたら、一度、お試しください。

「巨人の星」に学ぶ、対人処方

不要不急の外出を控え、自宅にこもることの多い毎日を過ごしております。
比較的早い夜の時間、最近はオンデマンドによる昭和の名作アニメを観ています。
「巨人の星」、おそらく40代以上の方なら、タイトルくらいは聞いたことはあるのではないでしょうか。
1968年から1979年にかけて放送されたTVアニメで、プロ野球巨人軍を目指して猛特訓に励む父と息子の、そして後半は巨人軍に入った息子の、スポーツ根性ものです。
楽しむポイントはいろいろとあるのですが、今回は対人処世術の観点から、「あ~、なるほど。」と思い当たったことについて、書いてみることにします。

 

他人が自分に対してする”嫌な言動”の意味は?

「巨人の星」第35話「魔球対剛速球」の中に、考えさせられるシーンがありました。
主人公の星飛雄馬(ほしひゅうま)は、16歳。
甲子園初出場の青雲高校の投手です。
左の本格派、剛速球投手で、幼いころから父にしごかれて、針の穴を通すコントロールと根性、野球理論を持ち合わせています。
対戦相手は、前年度優勝校の三河高校。
エースの太刀川(18歳)は、きれの良いドロップを決め球にする変化球投手です。
今風に言えば、縦におちるカーブでしょうか。
息詰まる投手戦が続き、太刀川は17奪三振です。
0対0、9回裏二死、打者は太刀川の場面でのこと。
太刀川は、バントをします。
飛雄馬は、軽快なフィールドワークで簡単に処理をします。
そこで、「?」となるのです。

「俺の投手守備が下手でないことを、太刀川は知っていたはずだ。
なのにどうして、バントをしたんだ。」

 

そこで、ひらめくのです。
17奪三振、ここまで投げてきた太刀川は、疲れている。
バントで右に左に揺さぶられては、足がついてゆかないと恐れた。
そして彼は思った。
「自分が苦しい時は、相手も苦しい。」
だから飛雄馬が嫌がるだろうバントを、彼はしたのだと。

飛雄馬は、体力温存しながら投げていたので、太刀川ほど疲れてはいませんでした。
だからそのバントを処理できたのですが、この不自然なバントで太刀川の疲れを飛雄馬は見抜くという筋です。

 

これを見て、なるほどと思いました。
いつも他人に嫌なことを言う人、たぶん嫌がるだろうことを探している人、誰の身の周りにも少なからずいることと思います。
たとえば学歴、たとえば運動神経、スポーツの成績、家庭環境、容姿、所属している会社や団体等々。
こういうことを会話の中に織り交ぜて、相手の顔色をうかがい、相手の弱いポイントを探っているような人。
この人たちのついてくるポイントは、実は本人が弱いところなのです。
自分がそれを弱みに思っているから、相手もきっとそうだろうと思うのです。
それならば、その挑発にのるのは愚の骨頂です。
自分から自分の弱みを見せてくれているのですから、
「ああ、この人はこういうことに、コンプレックスがあるのね。」
と認識して、その次の言葉を選びます。
もしぴしゃりとやりたい(やっても良い相手なら)のなら、そのように。
うけながさなければならない相手であれば、むしろにっこり笑って受け流す。

巨人の星を見て処世術を学ぼうとは思いませんでしたが、さすが昭和の名作アニメ、なかなか深いです。
外出自粛はまだまだ続きそうですから、昭和の名作を楽しむ時間はたっぷりあります。
面白い気づきがあれば、またここで報告させていただきます。

テレワークのストレス

 

コロナウィルスの影響で、世の中大変なことになっていますね。
2月、この騒動が始まった頃、東京オリンピックも控えていることだし、国の威信にかけて3月末か遅くとも5月には、一連の騒動をおさめることだろうと思っていました。
楽観的に過ぎた予想でした。
オリンピックは延期され、今やウィルスは全世界で猛威を奮う。
外出の自粛が要請されて、仕事でさえテレワークを推奨される昨今です。

テレワーク、職場ではない場所(主に自宅)で、職場にいるのとほぼ同じ仕事をする形態。
VPN(仮想プライベートネットワーク)技術の向上により、物理的に離れた場所にいても、インターネット回線を通じて、安全で安心なセキュリティの下、社内LAN内で作業をしているかのような環境を得ることができるようになりました。
通勤ラッシュにもまれて、遠距離をはるばると職場に出かけなくても良いということは、近年政府が訴えている「働き方改革」の1つで、これ自体はとても良いものだと思います。

けれど自宅での仕事は、良いことばかりではありません。
私的空間に仕事を持ち込むのには、けじめとでもいうべき、しきりが必要です。
家族がいる場合、これはとても大事なことです。
例えば、9:00~17:30の勤務時間中は、たまたま自宅で作業をしているだけで、職場にいるのと同じように頭と心は仕事に向かっているのだから、その間他の作業のあてにはできないはずです。
この感覚を、家族に理解してもらわないと、

「自宅にいるのに、子供の面倒をみてくれない。」
「家事を手伝ってくれない。」

不満や愚痴を聞くはめになります。
子供がいる家庭では、仕事中にはけして近づかないようにとの躾も必要になるでしょう。
共働き家庭では、もっと困るでしょう。
休校になった子供が家庭に閉じ込められれば、退屈を持て余して愚図ったり、騒いだりもするでしょうし、言いつけを守らず外出してしまうことだってあるかもしれません。
仕事に集中していれば、外出に気づかずにいることだってあるでしょう。
子供の面倒をみながら、仕事に集中する。
なかなかに難しいことです。

本当は、テレワークの家族向け啓蒙マニュアルのようなものがあって、理解を深める準備期間をおいて、Goサインが出るのが望ましかったのでしょう。
それを今回のコロナ騒動で、いきなり始めたものだから、働き手も家族も困惑している。

急に始まった感のあるテレワーク、感染拡大防止のために必要なことですから受け容れるしかありませんが、おそらく多くの人に多大なストレスを与えていることと思います。
そこでとりあえずですが、明日からできるストレス軽減策をいくつかご提案いたします。

 

1.勤務時間内は、ベッドルーム等の個室に机を持ち込んで作業する。
ドアを閉ざし、できれば子供にもわかるように張り紙をする。
「しごとちゅう。じゃましないでね。」とか。

2.勤務時間とそれ以外の時間の切り替えを明確にする。
勤務時間が終わったら、家族の相手を積極的にする。
*いつまでもは無理なので、最初だけでも。
そうすれば、メリハリの習慣がつく。

3.できれば勤務中は、いつもと同じ服装にする。
「これを着ている時は仕事中」というサインになる。

4.共働き家庭で、子供が小さい場合(小学生)、1時間に1度は5分~10分程度、様子をみる。
幼い子供は、集中力の持続時間が短いので、長時間放置しておくと、子供の退屈や不安、好奇心の集中砲火を受けて、事態の鎮静化のため、多くの時間を必要とすることに。

5.配偶者や両親が家家を切り盛りしてくれる場合、1時間に1度程度、
「ありがとう。」とか「助かるよ。」と、お礼を言う。
職場でお茶を淹れてもらった時に言うように、仕事だと思って言う。

居心地の改善に、少しは役立つと思います。
お試しください。

心の3点支持

生きていると、穏やかな日々ばかりではありませんよね。
家庭内のトラブル、仕事上のトラブル、人間関係、家族の延長線上にあるトラブル(妻の夫の仕事関連の交際、子供の学校関連の交際、義理の家族との交際等)等々、おそらく何もない人などいないのではないでしょうか。
私たちは我慢することを美徳として、育てられています。
だから何かあっても、
「こんなの大したことじゃない。忘れよう、気にしない。」
と自分に言い聞かせて、耐える。
そしてつもりつもって、だんだんに塊が大きくなって弾ける。
弾けた先にあるものは、離婚であったり、離職であったり、とにかくあまり気持ちの良い終わり方ではないものです。
今日は、そうならないようにする予防法について、心の3点支持を提案することにします。

 

3点支持

耳にされたことは、ありますか?
元々は岩登りの姿勢に使う言葉で、4肢のうち3肢で身体を支え、残る1肢を移動のために自由にする安全姿勢のことです。
脚立や梯子、電柱に登るような高所作業が必要な業界では、よく聞く言葉です。
3点で身体を支えれば安定する。

これ、心の安定にも使えるなあと思ったのです。
働く人の多くは、起きている時間の半分以上を職場か通勤時間に使っています。
仕事が終われば、疲れて自宅へまっすぐ帰るか、そうでなければ仕事仲間と一杯飲んで帰ろうかとなるのが、よくあるパターンでしょう。
この人の所属するコミュニティ(共同体)は、1つまたは2つです。
まず職場。
家族がいる場合、これに家庭が入ります。
1つのコミュニティにしか属していない場合、人間関係や価値観の醸成等がすべて1つのコミュニティに従属しています。
そこで人間関係がこじれたり、何かトラブルがあったりすると、そのことばかりを考えてしまいます。
けれどもう1つコミュニティがあったら、少しは楽になります。
そこは、職場のコミュニティとは違う人員による構成だからです。
そして職場が仕事をすることを目的としたコミュニティであるのに対し、家庭は家族で生活することを目的としたコミュニティであり、集まる目的が違うので、うまくいけば職場のトラブルによるストレスを軽くしてくれる場合もあります。
但し、あくまでも「場合もある」ということです。
生活には、手間暇、お金がかかるもので、そこにはそれなりのトラブルがあります。
家族である分、他人より遠慮のない生の言葉をぶつけ合い、さらにストレスがたまる場合もあるということです。
そこに、第3のコミュニティを持つメリットがあります。

第3のコミュニティとは、仕事をするためでも生活するためでもない、生きる為にどうしても必要というわけではない目的のための共同体。
一番わかりやすいのは、趣味でしょう。
草野球、サッカー、格闘技、テニス、バレーボール等のスポーツ。
書道、絵画、音楽、文芸等のアート。
料理、手芸等の実用的なもの。
趣味とは少し違いますが、ボランティア活動なんていうものもあるでしょう。
このコミュニティを持つと、仕事にも生活にも関わりのない人たちが相手なので、気持ちを楽にして話すことができるような気がします。
そしてこの3つめのコミュニティは、「好きだから、やりたいからやる」が基本姿勢なので、「楽しいまたはやりがいがある」のが前提です。
そしてその良いところは、興味の対象が増えれば所属コミュニティをもっと増やすことができるし、興味がなくなれば削ることもできる点です。
気楽に楽しみながら、社会と関われる。
この3つめのコミュニティを複数持てば、「3点支持」による心の安全を保てるようになります。

働くということは、起きている時間の半分以上を職場で過ごすということです。
働いてお金を得なければ、生活できないのがほとんどの人ですから、職場のコミュニティに、よくも悪くも影響されるのは仕方のない事でしょう。
生きるのに必要なコミュニティだからこそ、悪い時でも、上手にうけながしたいものです。
心の平穏を保てれば、受け流すのがそれほど難しくはありません。
「そこにいて良い場所」が、他にもどこかにあるからです。
ご家族とうまくいっている方も、保険のためにお考え下さい。
第3のコミュニティ。
かなり良い仕事をしてくれますよ。

冷静でいる力

コロナウィルスで騒がしい毎日です。
テレビをつければウィルスの脅威でにぎわい、ネットでは正確でタイムリーなニュースに混じって、トイレットペーパーが不足するとか、ペットシーツが不足するとか、迷惑この上ないデマが飛び交ったりしています。

人は不安や恐怖があると、防衛本能が働くものだそうです。
関東大震災の際にも、どこをどうつけばそうなるのかというデマが出回り、それでひどい目にあった方もいるとか。
不安や恐怖の恐慌状態下では、どうも攻撃的になるようです。
これは今の状態にも、通じるものがあるかもしれません。

いつ解決するかわからない混乱を前に、物資の不足を心配したり、感染して社会生活から隔離されたまま帰れなくなるのでは心配したり、感染したことを責められるのではと心配したり。
集団ヒステリー状態のように見えます。

巷にあふれている情報は、玉石混交、本当に正しいものと単なる憶測のもの、希望のバイアスのかかったもの、不安のバイアスのかかったものが混ざってます。
こんな時こそ、正しい情報を見極める冷静さが必要です。
できるだけ客観的な根拠のあるニュースを基に、その後は自分の頭で状況を考えるのですが、そのためには極端で刺激的なニュースは遠ざける冷えた頭が必要なのだと思います。

まずおいしいお茶を淹れて、ひとつ息をして、それからどうすべきか考えるように。
最近、特に意識して努力していることです。

「できない」言い訳はみっともない。

「このままでは現場は回りません。」
「こんなの無茶苦茶です。」

新しいことを始める時、必ずこんな声が上がります。
特に現場リーダーの立場にある人、たいていは現場の仕事のできる人たちから、上がる声。

人が足らない。
人の質が悪い。
ものが足りない。エトセトラエトセトラ

現場リーダーとは、マネージャーになる前の段階で、現場においてリーダーシップを発揮して、仕事を回してゆく人のこと。
リーダーシップとは、やる気にさせる影響力のこと。
現有戦力にいかに不満があろうとも、「できる方法」を考えて、上に調整をかけるのも仕事のうちです。

最近気づいたのですが、この「上へ調整する」ということを知らないリーダーさんもいるのではないかと。
だめだしはできても、できる方法を考えて、それをさせてほしいと調整する必要があるのだと、知らない人もいるんだなと思うのです。

経営層、管理者層、その下の現場リーダー層、一般社員。
職位による職責の違いを理解していなければ、自分が何をするべきかもぴんとこないもの。
上位階層が何を考えていて、どんな目標をもってどんな方針で何をしようとしているか。
それに自分たちは、どう貢献するか。
そのためには、具体的に何を目標にして、どんな方針をたてるか。
現場リーダー層になれば、そろそろこんな思考も必要です。

だめだしは、新橋の焼き鳥やさんあたりで盛大にやって、戦場たる職場では、ぜひぜひ「何をすべきか」「どうしたらできるか」を考えることにシフトできたら、日々の仕事も楽しくなるのではと思う事です。

セルフモニタリングなき発信をする人(2)

自分の中にぶれない機軸を持つことは大切である。これは、前回扱ったとおりです。
けれどそれは、内心の問題です。
自分の心の中に確固たる価値観を持ち続けることは、生きやすく生きるために必要であると信じます。
けれど発信するとなると、ちょっと事情が変わってきます。
受信側の感情も配慮する必要があるからです。
人間が1人で生きているわけではない以上、どんな小さなコミュニティであったとしても、受信する側の人は確かに存在します。
そしてその人にはその人の、内心の機軸(確固たるものでなくとも)が存在し、それを踏みつけにされることに対して、良い感情を持たないのが普通です。
ですから内心の思いを発信する際には、それが特に相手の何か(容貌、言葉、価値観)を否定するものであるかを一瞬考えると、表現が変わってくるのではと思います。
例えば「太った?」なら、「あら、幸せなの?優しい顔つきになったね。」等。
「あんただって、あの時こう言ったよね。」
「あんただって、あの時こんなことをしたよね。」
「正直に自分の思いを口にしただけ」と言う人々は、それを突かれると、必ずこのように反論してきます。
ええ、そのとおりです。
誰しも完璧な人はいません。
けれどセルフモニタリング(受信側に配慮するために自己を客観視する)をしようと努力する気があるとないとでは大違い。
これまでどうだったかは関係ないのです。
気づいた時から、努力を始めれば良い。
そしてこの努力を始めると、セルフモニタリングのない発信者に対して、心の距離をおけるようになります。
セルフモニタリングなしの発信が許されるのは、幼児だけだからです。
相手が幼児だと感じたら、本物の幼児に対するように、大人への期待をしなくなります。
ぜひお試しください。

セルフモニタリングなき発信をする人(1)

前記事で、他者の評価に振り回されない自分を大切にしたいと書きました。
自己の価値基準を大切に、自分にとって〇か×か△か、ぶれない機軸を持ちましょうと、おおよそそんな内容です。
内心、言い換えれば「核」とでも言いましょうか、自分の中にある思いは、他者からの評価で揺らいでいては、生きにくい。
それは確かです。
けれど内心をそのまま発信するとなると、少し話が違ってくるのではないでしょうか。
今日は発信を伴う場合について、書いてみます。

「太ったね。」
「粉ふいてるみたいな顔に、色を塗りたくって。」
「髪がちりちりになってる。」
「頭悪いね。」
「気がきかないね。」
「垢ぬけない。」
「(食事を)おごる以外に、あの人になんの価値があるの?」
例えば、上のようなこと。
直接言われることはもちろん、他人のことだとしても聞かされて嬉しい人は、少ないのではないかと思う例をあげてみました。
こんなこと、口に出す人いるのかと思っていましたが、いるんですね(笑)。
そしてこう続くのです。
「だってほんとのことじゃない。」

「本当のこと」とは、その人の基準での正しいことです。
上の例でいえば「太った」だけは、体重やBMIや体脂肪率等の数値で客観的に証明できますが、それ以外は極めて主観的な評価でしょう。
それを「本当のことだから、言って何が悪い。」と発信されると、「本当のこと(本人が思っていること)だからと言って、口にして良いことではない。」と思っている人からすると、「あ~、痛いな。」とひいてしまいます。
先日親しい後輩と話していた中に出てきた言葉ですが、
「それを言ったら、みもふたもない。」
という類のこと。
けれど発信した当人はといえば、話している相手が困惑した態度をとっていても、「本当のことをはっきり言える私(俺)。表裏がなくていいだろう。」くらいに、さばさばとした表情で笑っていたりします。

次に、自慢話。または自己中心話。
誰かが
「アルゼンチンタンゴの夕べに誘われてね、行ってきたんだよ。
バンドネオンって初めて聴いたけど、いいもんだね。」
そう切り出した時に、
「ああ、タンゴなら私(俺)、先月横浜で聴いたよ。
世界的に有名なバンドネオンの奏者でさ…。」
例えばこのように、自分の話に持って行ってしまう人。

アルゼンチンタンゴなんて、自分の方があなたより知っている。
そして自分の聴いた演奏は、世界的に有名な奏者のものだ。
この2点を言いたいのだなと感じたら、切り出した側はそれで口をつぐんでしまうでしょう。
なんでも自分の方が上でなくては気が済まない。
俗にいう「マウンティング」体質の人。

次へ

 

Pride(2)

「周りに悪く思われないように」とは確かに大切なスキルです。
職場は仲良しクラブではなく、いろいろな人、価値観も年齢も異なる方々のコミュニティです。
「仕事をすること」を目的として集まったコミュニティなら、その仕事が円滑に運ぶよう、職場内で「悪く思われないスキル」は必要でしょう。
けれど、そこにいる人々は、親友ではないのですから、それぞれの「自惚れ」や「高慢」を理解する必要はありません。よく思っているからを理由に、「自惚れ」や「高慢」を喜んで肯定してくれるわけではないのです。
もちろん他人のそういう「自惚れ」「高慢」を上手に立てて、気持ちよく使ってくれる上司や同僚もいるでしょうが、それを全員に求めるのは無理というもの。

褒められないと不安になるとか、評価されないと不安になるとか、自分の自慢話ばかり聞かされるとうんざりするとか、よく耳にする話です。
私自身、そういう思いを抱いたことが、何度あることか。
けれど、ある日気づいたのです。
プライドの本来の意味について。
自尊心。
自分を尊ぶ心。
その評価基準は、自分の中にだけあるのではないのかということに。

他人を鏡にして、「えらく見える」とか「美しく見える」とか言っているから、その鏡が白雪姫の鏡のように、「おまえは醜い。白雪姫の足下にも及ばない。」とか言い出すと、途端に不安になるのです。
白雪姫の継母だって、白雪姫のお父様を射止めたくらいの妖しい美女だったのですから、そもそも白雪姫と比べる必要なんてなかったのです。
14歳の少女と、何が悲しくて張り合うのでしょうか
そもそも土俵が違うと思うのですが…。
あ、話がそれました。

つまり自尊心は、自らが評価者であり評価基準も自らの中にあるものですから、そのことを日々自分に言い聞かせ、よくできたと思えば自分をしっかり褒めてやり、だめだと思えば自分を叱りしていれば、他人に振り回されることなく、ずいぶん生きやすくなるのじゃないかと思うのです。
前述した困りもののプライド「自惚れ」や「高慢」も、自分による自分の評価が確立していて、他人から「綺麗だね」とか「立派だね」とか「すごいね」とかの賛辞を受けなくとも、あるいは「ぶすだね」とか「さえないね」とか「イタイよね。」とかのマイナスの言葉を浴びせかけられようと揺るがないのであれば、それは立派な「自尊心」ではないでしょうか。
もちろん独善的にならないように、他人の意見を聴くことも大切ですが、それはあくまでも参考意見であって、最終的に評価をくだすのは他人ではなく、自分です。
そうすると、仕事に手を抜いたり、身だしなみをさぼったり、そういうことが減るような気がします。
あの人がどう思うか、あの人に何を言われるかとか、そんなことのために身だしなみを整えるのは苦痛ですが、自分が納得する身だしなみを整えると決めると、鏡に向かうのが楽しくさえなるはずです。

自らを尊ぶ。
プライドを高く心に掲げて、生きやすく生きてみませんか。